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小山美秀子師が作られた絵更紗の風炉先屏風の一部

 

小山美秀子師について

創立記念日と申しますと、多くは、学校の竣工日とか、1期生の入学式とかになると思いますが、MIHO美学院は、神慈秀明会の開祖である小山美秀子師(会主様)の生誕日を創立記念日としています。私の母について少し話させて頂きます。

岡田茂吉師(神慈秀明会教祖)の地上天国建設の思想の精神性を本校の建学の精神としております。そして、岡田茂吉師の薫陶を得て、小山美秀子が神慈秀明会の開祖となりました。母は、1910年、明治43年5月15日に大阪の中心地にあたる船場という、問屋街や金融街にある河崎家の次女として生誕しました。この河崎家というのは、年中行事を大切にする一方で、また、進取の気性に富んだ家風でございました。そして私の祖父母は、観音信仰に大変熱心であったと聞いております。

母は、活発にして大変聡明ということで、女学校内でも目立っていたようです。清水谷高等女学校を卒業して、普通ならば、そこで花嫁修業をして結婚となるのでしょうが、それを物足りなく感じ、さらに高い精神性のある情操的な学校に憧れて、東京の自由学園に進学しました。「当時、大阪から東京へ、女子が一人で行くということは、現代の子供たちが、日本から海外へ勉強に出るよりも難しかった。」と申しておりました。自由学園というのは、羽仁もと子、吉一夫妻が立ち上げられました「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」「人としてこの世に生まれた以上は、社会に奉仕すべきである。」というキリスト教精神に基づき、生活即教育、独立と協調を学ぶ教育でした。何不自由なく過ごしておりました母にとりまして、自由学園の寮生活は非常に厳しく、本当に大変な厳しさから、涙したこともあったようでございます。しかし、その自由学園で学び、羽仁もと子女史の薫陶を受けたことが、その後の母の歩む道の基礎となりました。

母は昭和16年に、岡田茂吉師との邂逅を得ました。そして、戦中戦後の混乱期を乗り越え、一途に教祖の教えに従いまして、生涯人の幸せを願って布教伝道の道を歩みました。一方、大変美を求め、美を愛でられた教祖でございました。母も同じく、美しいものが好きでした。大自然の美しさや、一流美術品に心を惹かれ、最終的には、世界の最高の美を求めて、収集されたコレクションが、今、MIHO MUSEUMの南館に収められています。「美しい物、一流のものを沢山見なさい。感動が生きた栄養になるのですよ。美しいものを求めることは、神様を求めることなのよ。」という言葉を残しております。

母の理想とする教育の具現化を目指して、MIHO美学院の子供たちは6年間しっかりと建学の精神に基づいて学び、将来、真善美の理想世界実現の為に、社会に貢献する人材となって卒業して行くことを願っております。

2014 年5月15日
MIHO美学院創立記念日の初代小山弘子理事長挨拶より


小山美秀子師 略年譜

 

■明治43(1910)年5月15日
河崎家の第二女として、大阪に誕生。
 
■昭和3( 1928 )年3月
大阪府立清水谷女学校卒業後、羽仁もと子氏が創設した東京の自由学園高等部に進学、自由学園の教育理念である「生活即教育・独立と協調の精神」を学ぶ。
 
■昭和16( 1941 )年
精神的指導者である岡田茂吉師との邂逅により、「真善美」の理想社会実現の理念を学び、献身的な奉仕活動を開始。
 
■昭和45( 1970 )年
岡田茂吉師昇天から15年が過ぎたのち、岡田師の精神性への帰依と真の信仰を求めて、神慈秀明会を創設。
 
■ 昭和58( 1983 )年
滋賀県信楽の地に、同会の中心地となる「神苑」を開苑。かの地に富士山を思わせる殿堂「教祖殿」を建立する。設計は、ニューヨークのワールドト レードセンターなどで知られるミノル・ヤマサキ氏に依嘱、竣工。
 
■平成4( 1992 )年
岡田師の「自然順応・自然尊重」の理念を実現すべく、秀明自然農法の普及展開を開始。
 
■平成9( 1997 )年
岡田師の「美による感化・美による社会奉仕」の理念を実現すべく、滋賀県信楽の山中にMIHO MUSEUMを開館。パリ・ルーブル美術館のリニューアルをはじめ、世界でさまざまなプロジェクトを推進してきたI.M.ペイ氏に依嘱、竣工。
 
■ 平成15( 2003 )年11月29日
昇天。享年93歳。
 
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